猫になりたいなあ。

なんか、明日提出しないといけないドイツ語の課題があるのに日記を書いてる。フラットメイトがいない静かな家、三つある電球も2つ切れていて、薄暗い部屋でスピッツのマサムネの歌声聞いてるとなんか昔が本当に懐かしく思えてくる。言葉には表せない感情が頭の中でいろいろ出てくるなあ。「幸せ」なんだろうなあ。「何が幸せな瞬間」だろう。昔に比べると今はカブトムシも見なくなったし、最後にアリを見たのはいつだろう。小さい頃はチンコロも恐れずに家に持ち帰って、母さんに見せたものだ。小学校、中学校の頃は規律の中で何も考えず、過ごしてたなあ。高校受験はあったものの、日々そんなに社会の価値観を深く考える事なかった。今、こんな自由にやらしてもらってるのに昔のそれほど何も考えずに過ごしてた時期が懐かしくなるなあ。なんでだろう。あの当時はひたすら、何も考えずに自分勝手にサッカーもしてたのに。今、俺が夏に近所で網戸越しに他の人の家を覗いてたら、通りかかった人は変質者と思うんだろう。でも小さい頃、それをしたと思うんだけど、きっと通りかかった人はただ小さい子が好奇心で人の部屋を覗いてるんだって思ったんだろうなあ。今はインターネット、携帯電話があって何もかもが便利になったのに、あの頃は本当に友達と遊ぶ時間がなくなるって思って、いやに思ってたけど、学校終わった後、母さんと耳鼻科に電車で通った日々がなんか懐かしいなあ。母ちゃんもその頃は免許ももってなくて、幼稚園も自転車の荷台に乗って、通ったなあ。でも母ちゃんが子供を荷台に乗せて、幼稚園の送り向かいしてるのって俺が大きくなってからは見なくなった。あの光景ってもう見れないのかなあ。車の助手席ってきっと快適だけど、やっぱり、子供にとっては母ちゃんが一生懸命こぐ、自転車に乗ったほうがずっと心地よいと思うのになあ。子供が親を殺したり、親が変に過保護になり過ぎたり、やっぱり何かかけてるんだよなあ。愛情ってなんだ。親が子供の幸せを決める事か。親が子供のキャリアを他人と比べることか。他の子供と競い合って、テストでいい点数取らせることか。なにか間違ってるよなあ。競争がないと社会は健全に機能しないと思う。でもなんか違うんだよなあ。無機質だ。地位やステータスが全く要らないとそんな綺麗な事は言えないけど、それに固執していないか。世界を救いたい。これって大事だけど、それを自分の魅力、ステータスの一つにしてないか。みんな、なれるんだったらヒーローになりたい。世界を救う<ヒーローになる、って構図が今は怖いなあ。国連の関係者が食料と交換条件で買春してたって馬鹿らしいニュース。本当にふざけてるなあ。昔は「愛された事のない人が、人を愛せない。」って言葉にくさいなあ、この言葉って思ったけどこれはやっぱり本当なんだなあ。世界を救うって事も、自分を自分自身で満たす事ができなかったり、身の回りも平和にできない人には無理なんだと思うなあ。まとまりないなあ。さーってと、課題しないとな。